基本と自制心

11月に入りました
天気がいいと、青空が澄んで本当に気分がいいですね

この時期は週末、学校説明会を見学させていただく機会が増えます
先週末も、ある女子校を訪問しました
生徒指導のご方針を伺い、感じたことです

生徒指導責任者の先生の言葉です
『本校は、あたりまえの事ができる人を育てます』

“あたりまえの事”とは?
生活習慣、言葉づかい、マナー・・・
・電車などで、年長者に席を譲る
・公共の場で大声で話さない
・道で、来られた方のために道をあける、先に通す など

『でも、最近、あたりまえの事ができる人が
減っていませんか?』
確かに、そう感じます

「赤信号だから、横断せずに待つ」、あたり前です。
でも、残念ながら、無視して堂々と横断する中高生を見ます

おそらくその子たちも信号のルールはわかっています
でも無視する。なぜでしょうか?
理由は明らかです

同じように、無視して横断する大人がいます
中には、子供たちが待っている目の前を、恥ずかしげもなく
横断していく輩も。

幼い頃、初めて信号について教わった小さな子供たちは、
素直に実践していたでしょう
ところが、平気な顔でルールを無視する年長者の姿を何度も見ます

その結果、「車が近づいていなければ、無視して構わない」という
“負の学習”をしてしまいます
つまり、ルール、マナーを守れない子供たちにしているのは大人

交通ルールに限らず、ルールがあるのは、安全で快適に暮らせる
社会をつくり、維持するためだと思います

つまり、信号のルールを守るのは、単にその時点の安全のため
だけではない。社会の一員として、安心、快適な暮らしを得る
ために担う責任、投入、あるいは一時の自制です

残念ながら、“負の学習”機会を提供する者が少なくありません
情けないことに、過去の私自身もその一人であった場面を思い出せます
しかし、我々は改めて“正の学習”を促すこともできます

一度は“負の学習”をしてしまった子供たちに、改めて“正の学習”を。
己の振る舞いをもう一度見直さなければ、そう思いました。

本当に大切なものは、目には見えません
学校であれば、勉強するのは当たり前。それだけでなく、
もっと大切な何か。
公共心や人間の器を創る教育を根底に持つ学校、その価値が
改めて問われているのではないでしょうか