「手取り、足取り」に一言

コアネットの嘉村です。
以前から中高の先生方との意見交換を通じて気になっていたことに、「手取り、足取り」の“面倒見の良い”教育があります。本日はこれについて一言。

最近、大学関係者と打ち合わせをもつ機会が増え、大学教育といえども、きめ細かい学生支援が欠かせない、という話(実情)を伺います。もちろん、大学教育の本来の意義・役割を考えれば「望ましいことか…」という疑問(自己矛盾)を感じつつ、他大学の取り組みには対抗しなくてならない、という本音も多く混じります。

本音はともかく、実態として多くの大学が「面倒見の良さ」を競い合う状態だとすれば、その前段階の高校教育(特に私立)ではいっそう、「面倒見の良さ」が求められるのは当然、ともいえそうです。実際に多くの私立学校(特に女子高?)が学校説明会などで「面倒見の良さ」を特長の一つとしてアピールしているようです。

実際、研修中の意見交換タイムで「放課後も講習や個別の質問対応などで多くの時間が必要。余裕がない…」という感想(悲鳴?)をよく伺います。他にも仕事はあり、結局「授業準備や授業研究などに時間を取りたいが無理だ…」という現状。それは教師の使命に照らして、本当に“仕方がない”ことなのでしょうか?

「それで本当に生徒さんの力はついていますか?学力は向上しているのですか?」
「かえって自ら考え、学ぼうとする自主性・自立心を阻害していませんか?」
「もしかすると、お互いの“自己満”になっているだけではありませんか?」
私はあえて、投げかけてみます。
「その時間は生きた時間ですか。本当はもっと多くの生徒を伸ばすため、先生方がより
 指導力を高めるための授業準備、授業研究、研鑽などに投資すべき時間なのでは?」

読者の皆様はどのようにお考えでしょうか?
上記のような問いに、明らかな「正解」はありません。学校により、生徒の状況により、適切な対応は異なる場合が多いと思います。しかし、一歩引いて、全体感をとらえ、中期視点で学校として、組織として軌道修正をしていく発想・視点が必要です。そうでなければ、常に目の前の生徒の対応に追われてしまい、3年、あるいは6年単位でつけたい力を着実につける教育は難しいと思います。

ある男子校(有名進学校)の校長先生からお伺いしたことです。
その学校も10年ぐらい前は「手取り、足取り」の教育に明け暮れ、生徒も教師も「これだけやったんだから…」という充実感で満足していた。ところが、「実際には学力はついておらず、進学実績も向上しなかった」。
そこで、方針を転換し、「生徒が自ら学ぶように導き、支える」スタイルに変え、チャイムも廃止したそうです。「本校の先生は“待つ”ことができる」と嬉しそうに(誇らしそうに)語っていらっしゃいました。
(その後、偏差値、進学実績が次第に上がっていったそうです)

目の前の生徒が「わからない。教えて」と言えば「わかるまで丁寧に教える」のも必要な指導なのだと思います。しかし、学校の使命は「20年後に社会で求められる力(の素地)」を身に付けて送り出すことであり、“そのために、どのような指導がベストか”を常に思考の起点とすべきではないでしょうか。本当の「生徒のため」とは何か、それを本気で考え、実践していただきたいと心から願いっています。